雑感
7月2日に45歳の誕生日を迎えた。「光陰矢のごとし」というが、月日のたつのは速いものです。
今週は、私がPTA会長を勤めている第三亀戸中学校の地区懇談会が、月曜日から金曜日まで2地区同時に夜7時から開かれています。学校選択性が始まって、本来学区内の地域という概念は必要ないかもしれないが、三亀中は、伝統的に地域の町会や地域で作る教育推進協議会、歴代のPTA会長を含めた保護者が学校を護るという意味で、夏休み前に子供たちの安全な生活環境をどうやって築くかというテーマで、各町会に所属する町会の役員と保護者と数人の学校の先生が一緒になって話し合うのが地区懇談会です。
このやり方は、江東区22校ある中学校の中でも三亀中だけです。下町のよさがこんなところにも反映されていると思います。子供たちにとって、中学生にもなると大分大人びてきて、周りの干渉を嫌うところもありますが、家庭だけでなく、地域の方々にも関心を持って子供たちに接してもらえることは本当はすごく幸せなことであると思います。小さい時から子供会やお祭りなど、いろいろな行事で子供たちを見守ってくださる方が居るということは、こんなにありがたいことはないと思いますし、この伝統を大事にしなければとつくづく思いました。
そこで、自分のことを振り返ってみました。兵庫県の尼崎で生まれ、5歳で母が離婚して、兄二人と私が大阪の吹田市に転居し、私が吹田市立岸辺小学校に入学したころ、当時仕事を3つも持って朝から晩まで働いていたので、母親に遊んでもらった記憶はほとんどなく、長屋の隣近所に居た魚釣りの名人や、読書家のおじさんの家でお世話になったことだけが思い出されます。当時借りた本がいまだに返さないで持っている本もいくつかあり、今思い出せば懐かしい思い出ばかりですが、隣近所は本当にありがたいものでした。
しかし、私が本当にお世話になったのは、やはり学校の先生でした。母は忙しく、兄は年が離れていたので、小学校でも中学校でも学校生活が私にとってはとても楽しかった。保護者会や参観日に来れない母の変わりに、先生は私のことをいつも気にかけてくださり、やさしく見守ってくれていました。
6年生のある日、家を出ておなかがすいていたので、パン屋によってアンパンを買い食べながら登校していると、自転車に乗って後ろから担任の先生が、「おい」と声をかけてきました。しまった、怒られるかと思いきや、「自転車の乗れと」私だけが登校中の子供たちを尻目に、二人乗りでいち早く学校に着くことができた事がありました。その後そのことが学校で話題になり、担任の先生は少し咎められたようでありますが、しかし私には全然気にすることはないと言って、その後もいろいろ心配してくれました。
今思うと、母子家庭で、朝もろくに食わず、大変なんだろうという思いで心配してくれていたんだろうと思いますが、その時のことをよく憶えているのは、やはりその時の先生の対応がよほどうれしかったに違いないと思います。
中学2年の時、忙しい母親が、今日は家庭訪問があるから家にいるという。学校でやんちゃな方の私のことを聞けるのでなんだか嬉しそうな顔をしていたのを憶えています。私も変なことを言われなければいいなと思いましたが、予想通り、母が担任から言われた僕の評価は、「勉強をしないで社会勉強ばかりしている」という言葉でした。母はいったいどういうことかと聞いてきましたが、心配することないと一蹴したことを思い出します。その意味はまた改めて書きたいと思っていますが、このときから私の政治の勉強が始まっていたのかもしれないと最近思うようになりました。
あまり長くなると読むほうも疲れると思いますので、この辺でやめますが、私が言いたいのは、子供たちにとって先生の存在は、大人が考えている以上にずっと重要な要素であること、そしてそのことを分からずに教育政策を変えてはいけないこと、特に学校の経営を任されている校長の存在は極めて大きな影響力を持っていること、どんな子供たちにも、先生がいい影響力を与える学校にしていかなくてはならないことを考えて行動すべきであるということです。
45歳の誕生日を迎え、私が今PTA会長を引き受けた理由を改めて考えてみた時、どうしても昔のことが思い出され、少し書いてみました。悪しからず。